いよいよ離婚へ。

離婚問題はいつも、ハードボイルド。
診療内科のカウンセリングを通じて、離婚問題に向き合っています。これで離婚したらバツニになりますが、嫌なものは嫌なもの。こうなってしまっては、会っただけ、同じ空気を吸っただけで過換気症候群に陥り、またしても突発性難聴になりかねません。
二ヶ月前までは実家と自宅の家事を両立して来ましたが、ようやく、実家のみの生活に諸事情があって、なりました。
鬱病の人間が毎日、毎日、二軒の家事をやっていたとは!今更ですが、頑張りましたね。買い物から洗濯、掃除、出来る限りの料理をし、実家に戻り父の介護をし、何度ひっくり返った事か。
でも鬱病になると、ますます申し訳ないって気持ちが出て、頼まれてもいないのに、やってしまうんですね。
やっと鬱病人間生活送れてますね、スロースローです。
でも、離婚問題はまた別口。旦那は私が弱っているのをいいことに退職金から比例報酬分の年金まで、別口座に入れました。確定申告書を目立つ所に堂々とおいているとは、ツメが甘い。全てコピーとりました。法律的には、年金も退職金も夫婦二人分ですからね。
問いただすと先程書いたように暴言を吐かれるので今は静観中です。
調停の場で明らかになるでしょう。そのためにもシュミレーションは必要です。
私は先日、カウンセラーの先生に、一度旦那と話し合いした方が良いのでは?と言ってしまい(恥)先生から一喝。今までの暴力、暴言をやって来て、今更旦那が変わるとでも?ですよね。なんだか、このまま、こっち都合で別居しているのが不利になると離婚の本に書いてあったので、って話すと、先生は一刀両断。本で得た情報は一般論であって、悪意の遺棄なんかには当てはまらない、あなたは介護しなければいけないんだから!子供も成人していれば何の問題も無しと言って頂けました。ヤレヤレ。おっちょこちょいのすっとこどっこいの鬱病人間、離婚を迫るシリーズは今から開幕です。カウンセリングで緊張で、本番はどうなることやら?でも信念さえ、あれば!絶対に離婚したい。離婚できない人生なんて入らないと腹をくくるのです。そうすると、緊張もぶっ飛び、未来図が愉しく描けるようになってきます。来週のカウンセリングは調停あーだこーだになりそう。気合い入れて戦場前の予行演習、頑張ります!(鬱病の人間は頑張ってはいけないのですが、こういう未来に向けての頑張りは大丈夫なのです)イケイケ!私!

電車のホームで。

去年からの突発性難聴からの左半身マヒが酷くなり、ゴールデンウィーク中さなか、整形外科も休みだからどうしたものか?と悩んだ時にTVで観た足で踏んで治す整体院を思い出しました。関西では、西の宮の先生にヒットし、かれこれ3ヶ月通っているのが、らくほく整体院。私の場合、座骨神経痛らしく、片足を引きずりながら歩いていたのが嘘のように改善しております。自費なので少々、お金は掛かりますが、出世払いとたかをくくって、通い続けています。その後、整形外科も受診しましたが、こんなもん治るか。湿布でも貼っとけとドクづかれました。

7年で体重が十キロ減。そして今は。

母の闘病中は毎年二キロずつ体重が減っていきました。53キロあった体重が43キロまで減り続け、やつれた自分にゾッとしていました。産業医にも、後七キロは太らないとと言われ続けました。そんな私が、
抗うつ剤を飲んで激太りしました。S S R I系の抗うつ剤は、太りやすいのです。
半年で10キロは増えました。1年後には80キロの大台にまで。「幸せ太り?」言われる度に、頷くしかなくて。より惨めな気持ちに拍車をかけました。2年後には80キロの大台まで後一歩までいきましたが、ちょっとした事件が私の体重を激減させました。
元々、不仲だった夫から、暴言をはかれ、過換気症候群が癖になってきていたのです。何とかスルーしようとしても、顔見ただけでフラッシュバックしてしまい、その場に倒れ混み、そこを夫が踏んづけるという日々。
近所に引っ越して、もらった父の家と自宅のダブル生活は鬱にも堪えました。勿論、主治医は行くなと言いますが、長年の主婦としての責任感というものが邪魔をします。行ったり来たりの生活は、また私の精神を破綻させて行ったのです。
ジェイゾロフトは途中で、湿疹が出るようになり中止に。
代わりにサインバルタ20ミリの処方になりましたが、これだけでは倦怠感が強く、効き目が、薄いのかをもたないのです。しかし、湿疹が出る薬を主治医は出してくれません。主治医からの散々な忠告にも関わらず、私は自宅と父の家の家事を精一杯やることにしか、自分には価値が無いのだと思い込んでいました。山のような洗濯物、散らかったリビング。溜め息ばかりが出ました。ただ、ずっと不思議に感じていたこと。
ギャンブル依存症の夫から家計を取り上げ、(調停で、決めました)お小遣い制にしていたのに。定年から嘱託に変わってから、お小遣いの要求がなくなったのです。
私の事をよっぽどバカにしているのか?気づかないとでも思っているのか?
こういう積年の怨みの感情も鬱にはよくありません。
家事に戻ると書類の山があります。
夫が既に年金を受け取って、自分名義の通帳に差し替えていることを知りました。私は、以前から疑念を持っており、お小遣い制だった夫がお小遣いのおの字さえ言わなくなり、羽振りまで良くなっていたので、家宅捜索していたのです。そして確定申告の書類を見つけ、夫に詰め寄りました。最初は知らぬ存ぜずの夫。銀行からの親展を見つけて、聞きただしました。強気な夫が激変します。「通帳はみせられへん。頼むわ。許してくれよ。ちゃんとするから」私は寒気で、気持ち悪くなりました。しかし、次に会った時に、また自爆のスイッチをいれてしまいました。「年金は65才からもらうんですね?」開き直った夫から「鬱になんかなりやがって。そんなお前に年金の事をとやかく言う資格があるのか?とりあえず、お前になんか取り分はない。たいした主婦もしてないくせに大口叩きやがって」
また過換気症候群が始まりました。それに加えて、耳の中に電車が走ります。キーギー、ガタガタと、脳が締め付けられるような圧迫。また夫が踏みつけていきました。大きな溜め息を吐いて。
④そして、突発性難聴に。
耳の違和感は収まりません。このままではいけないと耳鼻咽喉科に走りました。左耳は半分の聴力を失いかけてました。すぐに耳鼻咽喉科の先生から総合病院への紹介状を書いてもらい、一生涯聴こえなくなる確立が高いと言われ、診療内科の主治医と連携してステロイドを処方されました。1ヶ月、吐き気で苦しみ、体重が十キロ減りました。気分の悪さに加えて、夫への憎悪の念までが私を深い鬱に沈ませていきます。そう、この憎み、怨み、意地が私を一層、病の淵に近づけたのだとようやく知りました。
泥沼に自ら足を突っ込んで、助けてもらえる訳のない相手に、憎悪を抱き、わたしはすっかり混乱してました。
私の左半身は、完璧にマヒしました。立ち上がろうとしても天上が回ります。左半身はマヒして感覚が有りません。打たれ弱い自分にも嫌気がさしました。
鬱との闘いで、初期の苦しみの時以来、久しぶりに自死の思いが駆け巡りました。
ふと、イジメにあって、死を選ぶ子供たちの気持ちが分かるような気がしました。自死を持って、復讐を果たすのです。ところが、こんな事はナンセンスなのです。自分の尊い命を差し出す程の相手かどうか、見切ることが大切です。錯乱状態の時は一度、スイッチを切るのです。するとみえてきます、復讐をしてもダメージを与えるような人間ではないと。分かってきます。どうか心を諌めて。今のあなたは生きるに値する人間だと精一杯感じることです。すべての悲しみ、憎しみを身体中から放り出して、脱け殻のような自分でも良い。生きてるだけで十分だと抱きしめましょう。

私が私を失いかけた日々の呟き。

いつも全速力で、走っていた。身体も心も。折れること等予想もせずに。

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そう、どんなに曇天な日でも、朝日は上がり夕日は沈む。真っ赤な夕暮れの空に浮かぶ夕日はいつも私を勇気づける、一日を無事終えた安堵に包まれる。
そう、7年前までこの夕日はいつも私の背中を押してくれ、照らしてくれた。
鬱病になってからは、もう夕日を眺めるだけで、涙が頬を伝うばかりだった。自分の身体が思うように動かない、理不尽さに、朝日なぞ、もうでなければいいのにと、毎日思っていた。つい、この間までは。

私がblogを通じてアップしたいことは、私のような経過を辿って鬱病に流れ着いた人が一人でも少なくなって欲しいと思ったからです。自身でも、こんな余力が生まれる日が来るとは信じられなかったですが。必ず日は上がり、心を照らしてくれます。

①忘れられないあの日
私の母は、7年前、癌で亡くなりました。72歳でした。65まで働きづめに働いて定年後の2年後に発病。そして5年の闘病の末2008年に亡くなりました。そして半年後の翌年2009年の1月に私は全く眠れなくなりました。寝ていないのに昼間も眠くならない。いわゆる、交感神経の異常が2日続きました。年齢的にも更年期が疑われ、私はすぐに病院で診察を受けました。内診で子宮内膜が同年代の半分以下と言われ。更年期障害確定でした。かなりの量のホルモン剤と毎週にはホルモン注射で、乗りきり。完璧なデパス中毒に陥ってました。その1年半後に、私は全身が痺れ、膠着、最後には過換気症候群で息をするのもやっとの思いで、婦人科に駆け込みました。すぐにベッドに横たわらせて頂いて、診察。「あなたは私の患者じゃないわ」主治医から思いもよらない言葉が出ました。「心よ、心。あなたの病気は。」私の衝撃は想像つくでしょうか?自宅→仕事→実家(独り暮らしになった父の介護に)→自宅→仕事とまさにフルに動き回っていました。更年期障害と疑わず、通いつめた挙げ句が此れでした。主治医は紹介しようとしてくださいましたが、3ヶ月待ちだと。「なんとか自分で探して」これが最後の言葉でした。もう、この時期はデパス8錠飲んでたので耐性が出来ており、過換気症候群に加え、引き付け、痙攣まで起こしていました。
②診療内科と出会い
なんとか3日以内で診察して下さる病院を見つけ、この8月で4年の歳月を費やしました。初期の頃はメデタックス2ミリ、一日1錠。ジェイゾロフト50ミリ一日2錠。エペル50ミリ一日3錠。デパス0.5ミリ一日3錠。就寝前にマイスリー10ミリ一日1錠。リフレックス15ミリを2錠。頓服薬でデパスを1錠服用し続けました。仕事も当時、リストラ候補に私の所属していたマーケティングチームの名前がのぼっていたため、止められませんでした。結局、1年後にリストラされてしまうのですが。やはり、この時の私の心情では辞めれませんでしたね。でも、休職するか、キッパリ、辞めるかが一番です。鬱病にストレスは大敵ですから。少しでも早く元気になるには休養が一番。ってこれは鬱病の基本の基本でしたね。さぁ、この薬漬けの日々からどう回復していくのか。また綴ります。ここで最重要課題は、更年期障害だと思って、婦人科に通っている方に警告なのです。本当に更年期なのか?私は睡眠障害だけで、ホットフラッシュも何もありませんでした。ホルモンの値も60代と言われましたが、当てにはなりません。一度、妊婦を追い抜く数値出ましたから。だるい、気力がない等、放っておいたら、鬱の入口が口を開けて待っていることをお忘れなく。疑わしきは診療内科へ。みなさんにお伝えしたいメッセージです!