私が私を失いかけた日々の呟き。

いつも全速力で、走っていた。身体も心も。折れること等予想もせずに。

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そう、どんなに曇天な日でも、朝日は上がり夕日は沈む。真っ赤な夕暮れの空に浮かぶ夕日はいつも私を勇気づける、一日を無事終えた安堵に包まれる。
そう、7年前までこの夕日はいつも私の背中を押してくれ、照らしてくれた。
鬱病になってからは、もう夕日を眺めるだけで、涙が頬を伝うばかりだった。自分の身体が思うように動かない、理不尽さに、朝日なぞ、もうでなければいいのにと、毎日思っていた。つい、この間までは。

私がblogを通じてアップしたいことは、私のような経過を辿って鬱病に流れ着いた人が一人でも少なくなって欲しいと思ったからです。自身でも、こんな余力が生まれる日が来るとは信じられなかったですが。必ず日は上がり、心を照らしてくれます。

①忘れられないあの日
私の母は、7年前、癌で亡くなりました。72歳でした。65まで働きづめに働いて定年後の2年後に発病。そして5年の闘病の末2008年に亡くなりました。そして半年後の翌年2009年の1月に私は全く眠れなくなりました。寝ていないのに昼間も眠くならない。いわゆる、交感神経の異常が2日続きました。年齢的にも更年期が疑われ、私はすぐに病院で診察を受けました。内診で子宮内膜が同年代の半分以下と言われ。更年期障害確定でした。かなりの量のホルモン剤と毎週にはホルモン注射で、乗りきり。完璧なデパス中毒に陥ってました。その1年半後に、私は全身が痺れ、膠着、最後には過換気症候群で息をするのもやっとの思いで、婦人科に駆け込みました。すぐにベッドに横たわらせて頂いて、診察。「あなたは私の患者じゃないわ」主治医から思いもよらない言葉が出ました。「心よ、心。あなたの病気は。」私の衝撃は想像つくでしょうか?自宅→仕事→実家(独り暮らしになった父の介護に)→自宅→仕事とまさにフルに動き回っていました。更年期障害と疑わず、通いつめた挙げ句が此れでした。主治医は紹介しようとしてくださいましたが、3ヶ月待ちだと。「なんとか自分で探して」これが最後の言葉でした。もう、この時期はデパス8錠飲んでたので耐性が出来ており、過換気症候群に加え、引き付け、痙攣まで起こしていました。
②診療内科と出会い
なんとか3日以内で診察して下さる病院を見つけ、この8月で4年の歳月を費やしました。初期の頃はメデタックス2ミリ、一日1錠。ジェイゾロフト50ミリ一日2錠。エペル50ミリ一日3錠。デパス0.5ミリ一日3錠。就寝前にマイスリー10ミリ一日1錠。リフレックス15ミリを2錠。頓服薬でデパスを1錠服用し続けました。仕事も当時、リストラ候補に私の所属していたマーケティングチームの名前がのぼっていたため、止められませんでした。結局、1年後にリストラされてしまうのですが。やはり、この時の私の心情では辞めれませんでしたね。でも、休職するか、キッパリ、辞めるかが一番です。鬱病にストレスは大敵ですから。少しでも早く元気になるには休養が一番。ってこれは鬱病の基本の基本でしたね。さぁ、この薬漬けの日々からどう回復していくのか。また綴ります。ここで最重要課題は、更年期障害だと思って、婦人科に通っている方に警告なのです。本当に更年期なのか?私は睡眠障害だけで、ホットフラッシュも何もありませんでした。ホルモンの値も60代と言われましたが、当てにはなりません。一度、妊婦を追い抜く数値出ましたから。だるい、気力がない等、放っておいたら、鬱の入口が口を開けて待っていることをお忘れなく。疑わしきは診療内科へ。みなさんにお伝えしたいメッセージです!